沖縄戦とは何か?
日本は明治以後、日清・日露・日中そして太平洋と戦争を続けた。15年戦争は、1931年9月柳条湖の鉄道を自ら爆破するという満州事変から始まり、中国内部に侵入し満州国を設立した。国際連盟が満州国の取り消しを求めると、日本は国際連盟を脱退し、1941年12月ハワイ真珠湾へ奇襲攻撃し太平洋戦争が始まった。日本は東南アジアと南方の島々に進出し大東亜共栄圏を築く。しかし、負け戦が続き44年には那覇10・10空襲を受ける。日本軍は本土決戦を遅らせるため沖縄県民を盾にした「捨て石作戦」をとる。米軍は45年3月末に慶良間諸島に、4月1日には本島に上陸し住民を巻き込む悲惨な地上戦が行われた。5月末には首里城地下司令部は南部撤退し、6月23日糸満摩文仁で牛島司令官と長参謀長の自決によって組織戦は終結したが、自決前に出された「最後の一兵まで戦え」という命令によって9月7日の日本軍の降伏調印まで戦いは続いた。
沖縄戦は軍人より住民の死者数の方が多く、県民4人に一人が亡くなった悲惨な戦争であった。沖縄県民が沖縄戦から学んだことは、「軍は住民を守らない」そして「命どぅ宝」(命こそ最高の宝)は真理で宗教・教育・政治の根本であるということである。
(画像は沖縄県公文書館所蔵)
第32軍とは何か?
第32軍は、太平洋戦争末期1944年3月22日に、沖縄から出陣して米軍と戦うために渡辺中将のもとで編成された。その後、司令官として牛島満中将、参謀長として長勇少将が親補(天皇に親任)され、本土防衛を主たる目的として首里城地下司令部壕を構築した。司令部壕は「天巖戸戦闘司令所」と名づけられた。
国家間の戦争は軍人と軍人との戦いである。 しかし、牛島司令官は米軍の猛烈な攻撃が首里城地下の司令部壕に迫り、大半の兵力や兵器も失い戦闘はほぼ決したにも関わらずそこで敗北することを認めず、1945年5月22日司令部壕を爆破して住民が避難している南部への撤退を決定した。沖縄県民の戦没者数 (推定94,490人)が多いのは、司令官が将兵に対し「我ガ将兵ニハ進死アルノミ」と訓示し、沖縄県民に対しても捕虜になる事を許さず、国体(天皇制)を護持するために遊撃継続の訓令を発したためである。6月23日糸満摩文仁で牛島司令官と長参謀長は自決し、組織的な戦闘は終わるが、9月7日の降伏調印まで戦闘が続いた。
(画像は沖縄県公文書館所蔵)
第32軍司令部壕とは何か?
太平洋戦争末期、サイパンなど南方の戦況が悪化し、1944年10月には那覇の10・10空襲があった。第32軍は当初、南風原津嘉山に司令部を置く予定であったが急遽変更し、12月から翌年3月にかけて高台にある首里城地下の岩盤下に司令部壕を構築した。壕掘りには学徒たちや住民も動員された。壕には5つの坑口と2つの立坑があり、坑道は守礼門から首里金城町へ南北約400m、アリの巣状で全長約1,000m、地下15~35mに掘られた天井高 1.8m、 幅1.5~2.4mの坑道は湿気に満ちた換気の悪い急ごしらえの粗末な司令部壕であった。
守礼門地下あたりには牛島司令官や長勇参謀長がいた司令官諸室、木曳門地下あたりに司令中枢部の各室、その他の坑道には約1,000人の兵隊がいた。沖縄戦の作戦や指揮はこの司令部壕内で執られ出された。4月中旬からの米軍の激しい攻撃によって首里は完全に破壊された。兵士や武器の大半を失い戦いがほぼ決着したにもかかわらず、牛島司令官は5月末、多くの住民が避難していた南部に撤退することを決定した。この壕の要所を爆破し、戦闘を継続した。そのため、多くの住民が戦いに巻き込まれることになった。
(画像は沖縄県公文書館所蔵)